• ホーム
  • 事務局マップ・スタッフ
  • PFI事業施行者の皆様へ
  • 更新情報
  • リンク集
  • お問合せ
  • 近畿のANABA

    「これからの物流と公共事業」(平時と有事の、都市物流計画 )

      

    流通経済大学 流通情報学部      
     (東京海洋大学 名誉教授) 
    教授  苦 瀬 博 仁 氏

                                          講演会で使用した資料はこちらです

     それでは時間になりましたので、開始させていただきたいと思います。皆さんどうも、こんにちは。本日は日本補償コンサルタント協会 近畿支部の創立40周年の記念講演会ということで普段にない少し格調高い先生をお呼びしようということで、東京海洋大学 名誉教授の苦瀬先生にお越しいただきました。

     昨今、アマゾンだとか、ネット社会になりましたので、ヤマト運輸との物流とかがうまくいかないというニュースが毎日やっとりますが、そういうこともありますし、また大阪でも北港やら南港の土地が非常に高い値段で入札が落とされて、物流関係の倉庫になっているという現実があります。本日は物流の第一人者であります、苦瀬先生にお越しいただきまして、「これからの物流と公共事業」というテーマでお話ししていただきたいと思っております。少し、苦瀬先生のご紹介をさせていただきたいと思います。苦瀬先生は早稲田大学の大学院で博士号を取られまして、その後、民間のゼネコンにお勤めになった後、東京商船大学に助教授になられました。その後、東京商船大学が東京海洋大学というふうに名前が変わりまして、現在は東京海洋大学の名誉教授ということのなっております。また流通経済大学の教授をなさっております。これ以外にも8つの大学の非常勤講師をされておられるということであります。また学会では、都市計画学会を始め、土木学会、交通工学学会、それからたくさんの8つの学会の論文査読委員をされておられまして、特に震災復興関連では都市計画学会の震災復興特別研究委員会の部会長をされておられます。きりがないのですけど、もう一つだけ、受賞した賞としましては、第6回世界交通学会論文賞、横浜市賞、日本ロジスティックシステム協会「物流功労賞」、それから日本物流学会「著作賞」、日本都市計画学会「石川賞」と数々の賞を取られておられます。本日は「これからの物流と公共事業」というテーマで先生にこれから、今3時半でけども5時半まで2時間、時間をお取りいただいておりますので途中随時先生の方で休憩を入れていただきますとか、質問コーナーを取っていただきますとかしていただきまして進めさせていただきたいと思っております。それでは、先生、どうぞよろしくお願いいたします。

    ≪拍手≫

    【はじめに】

     ただ今ご紹介をいただきました、苦瀬でございます。今、丁寧に紹介していただいたわけですが、もう少し補足させていただきたいと思います。まず、私は大学では土木工学科を出て都市計画を勉強して、大学院を出てから、民間の建設会社に5年ほど勤めておりました。大学院の時に、物流のことも多少勉強しておりましたので、東京商船大学というところからお声を掛けていただきました。

     お声がかかったときに、質問しました。「私が船の大学で大丈夫ですか。私は土木工学科出身なのですが」と言ったら、「あなた物流の勉強をしたことがあるでしょう」と言われました。「でも、それは陸の物流で、海運のことはわかりません」と言ったら、「今からの時代、うちの大学には陸の物流も必要なのだ」とおっしゃるのです。「海上輸送が専門の者は大学にいる。今までは港と港の間で物を運んでいたけれども、これからは内陸の工場から港へ運び、港に着いてから内陸のお店に持っていくのだから、内陸のことを解る人がいないと困るのだ」とのこと。「私、船は操船できませんし、船に乗ると酔ってしまうのですけどいいですか」と言ったら「構わない」とのことでした。こういうことですから、「東京商船大学の先生だから、船に詳しいでしょう」と聞かれると、「いや、詳しくないです。土木工学科出身ですから」と言っていました。土木の人たちのところへいくと「船の大学にいるから、土木のことは詳しくない」と、言っていました。いつでもどこでも、素人っぽい顔をして、難を逃れていたわけです。

     東京商船大学では、昭和53年に運送工学学科という物流を専門に勉強する学科ができました。同じように、神戸商船大学にも物流の学科ができました。それ以外に、私が今お世話になっている流通経済大学というのが関東の龍ヶ崎市にあるのですが、これは学校法人日通学園ということで日本通運が作った大学でございます。関西の方では、ダイエーがお作りなった流通科学大学というのがあります。私の同僚とか教え子がそこにいるわけでございます。今日も日本物流学会の関西部会がこの時間に会合をやっておりまして、私の教え子がしゃべっているはずです。

     東京商船大学に入りましたら、「君は、三方って知っているか?」と聞かれました。「いや知りません。何ですか」と聞き返しましたが、「土木、船方、馬方」のことだそうです。「君は土方で大学を卒業して、船方の大学に来て、馬方の勉強をするのか」という話でした。「そういうことだと思います」と応じたのですが、「方」というとイメージがもう一つなのですよね。それで、土木学会の会合で飲んでいたときに、田村喜子さんという作家にこぼしたら、「何を言っているの、『方』が付くのは偉いのよ。だって、親方と奥方には頭が上がんないでしょう。あなた、3つも『方』があることは良いことよ」と言われました。以後、その気になりまして、今に至っております。

     今、中村さんから「物流の第一人者」と言われて、実はこそばゆいわけでございます。しかし、よく考えてみますと、土木や都市計画を勉強して、それで物流のことを勉強している研究者そのものが少ないのです。私が東京商船大学に入った頃、「もともと土木は社会のために仕事するのに、物流なんて民間企業のために仕事するとは何事か」というような風潮がありました。物流は人々の生活を支えている地道な仕事なのですが、当時はそのような雰囲気がありました。そういうことなので、私の年代で土木出身で物流のことを長く研究している人は、非常に少ないのです。もちろん、何人かおられます。関西の同世代ですと、神戸商船大学(現、神戸大学海事科学部)の小谷先生とか、京都大学の谷口先生とかおられるのですが、分野は多少異なります。ライバルが多いと、10人の中で第一人者になるためには9人を追い抜かなければいけないのですが、1人しかいなければ「トップ兼ビリ」ということでございます。ですから、第一人者だと言っていただいても、本当はビリかもしれないと勝手に思っているところでございます。

     前置きが少し長くなりましたが、今日は、「これからの物流と公共事業」ということでお話しをさせていただきます。途中でご紹介にもありましたように、今物流で非常にホットな話題が出ているかと思いますけれども、もしも宅配の問題どうするのか、ネット通販ってどうなっているのか、そういうことも、時間があればお話しができると思っています。取りあえず目次の順番に従って、お話ししたいと思います。

     あっそうそう、あぁ、忘れていました。ごめんなさい。創立40周年おめでとうございます。こういう40周年のお目出たい席で、こういう話でいいのかどうかよくわかりません。お目出たいときに、下らない話を聞かされるのは辛いなと思う方もおられるかもしれません。そういう方は修業だと諦めていただき、お話しをさせていただきます。

    【1. 歴史に学ぶ物流の知恵】

    1-1 都市の成り立ちと物流

     まず、「歴史に学ぶ物流の知恵」ということから、お話しをさせていただきます。物流という言葉が、今すごく流行しているというか、新聞でもテレビでも非常に話題になっているわけでございます。しかし、私が大学に移った30年くらい前に、物流というと何?輸送?みたいな話で、あまり脚光を浴びていなかったと思います。しかし、歴史を振り返りながら、どんなに物流が重要だったか、ということをお話ししたいと思います。

     このスライドが、「都市の成り立ちと物流」ということでございます。皆さま、風水という言葉をご存じと思います。昔城下町を作るとき、「地取り、縄張り、普請、作事」という順番がございました。「地取り」というのは城の場所を決めることで、例えば大阪城を台地の端に設けるというような「立地選定」です。次が、「縄張り」です。これは区画割りであり、都市計画でもあります。「普請」というのが土木工事で、「作事」というのが建築工事です。私は「都市計画」という言葉が非常に好きなのですけれども、最近は「まちづくり」という言葉を皆さんが良く使います。私はほとんど「まちづくり」という言葉は使いません。なぜかというと、「まちづくり」という言葉には、何言っているのかわからないところがあるからです。「まちづくりって、何やるのですか?」「いゃ、これから御神輿の寄付集め」とか言ったり、「公園を造ります」と言ったり。そういう「まちづくり」ではなくて、やっぱり昔の手順のように、「『立地選定、都市計画、そして土木工事、建築工事』という順番があるべきだろう」というのが私の理解でございます。

     その「地取り」つまり立地選定をするときに、風水の知恵に従ったようです。ここに絵がありますが、「北に山、南に水があって、東に川、西に道がある場所、そういう場所に城下町を作りましょう」と考えていたわけですね。この四つの方向の神様や色は、高松塚古墳もそうですし、大相撲の四隅の色と同じなるわけであります。そういうふうに城下町の立地場所が選ばれていたとき、「東の川って何だったろうか」と思うわけであります。私の理解では、飲み水の確保とそれから物資を運ぶためにその川を必要としたのだろうと思っているわけです。なぜかと言いますと、もちろん大阪もそうですが、世界の大都市をイメージしていただきますと、ほとんどが川辺にあるわけです。ロンドンのテームズ川、パリのセーヌ川、ニューヨークのハドソン川。こちら大阪は淀川、東京の隅田川、韓国のソウルにも川があります。タイもチャオプラヤ川がバンコクにあります。つまり、大都市になるためには、多くの市民に生活物資や食べ物を供給しなければなりませんが、鉄道とか自動車がない時代に、一番大量に物資を運べたのは船なわけです。ですから、船が着く場所に大都市ができたのだと思います。山のてっぺんに、百万都市なんて作れるわけがない、とこういうことなのだろうと思います。

     すみません。私は、大阪に詳しくないので東京の話になってしまいます。江戸を家康が選んだ理由は、船による大量物資の輸送ができて、いずれ百万人の町に発展するための可能な土地だったからと思うわけであります。これは定説ではございません。だいたい少数説です。私もその一人なのですが、他に何人かの先生が、「徳川家康は秀吉に江戸に行けと言われたから行ったのではない」と、「そもそも江戸を目指していたはずだ」ということを言っているわけであります。つまり、物を運ぶということは、町を大きくするときに必然だったと思っているわけです。

     城下町を作る仕事っていうのは、兵糧攻めから市民を守るという仕事であり、水と塩と米を運ぶということです。そのために江戸では、八丁堀を始め、運河や堀を造るわけです。八丁堀では、掘り割りを作って、ここに船が着いて物資を供給するのです。この図面で行くと、ここが日本橋でございます。これは外堀で、今は埋められて外堀通りになっています。東京駅は、この辺にあるわけでございます。ですから、鈴木理生さんという歴史家は、「江戸の都市計画というのは、そもそも輸送手段を確保することだった」と書いておられます。今、都市計画だとか、まちづくりというと、きれいなビルを建てることと思ったり、住宅地を造るのかと思ったりします。確かに私が大学生のころの約40年前は、都市計画の見学というと多摩ニュータウンに行くというパターンでしたから、だから私もそのように育ったのかもしれません。しかし、江戸の都市計画は、そうではなく、土木工事や建築工事に先立つ思想として都市計画があったように思います。

     この図で、ここの蔵前に、やはり船が入るように埠頭がございました。そしてこの図が、日本橋魚市です。日本橋まで魚を船で運びまして、それを揚げる場所が日本橋の魚河岸になっています。この当時の状況を、作家の童門冬二さんは、「江戸の町は、物は水の道で人は土の道」と書いておられます。これが江戸の絵なのですが、明治時代に開削される荒川放水路は、まだありません。これが隅田川で、これが江戸川です。このように、川に沿って町ができていたということです。これが、小名木川でございます。都市の変遷は、「水辺の都市」、それから「鉄道の都市」、そして「道路の都市」へと、交通機関の変遷に従って変わっていくわけです。今は「鉄道の都市」なのだろうと思いますけれども、この当時は「水辺の都市」だったと思います。

    1-2 江戸時代の廻船・舟運・街道 

     では、江戸時代の長距離輸送はどうなっていたかといいますと、1671年と1672年に河村瑞賢が「廻船航路」を拓きます。この廻船航路とは、「港を整備して潮流や風波を考えて、多少大回りでも目的地に安全に航行できる航路を拓く」というものです。もちろん、江戸時代以前でも北海道の昆布が、関西に来たり、沖縄に行ったりしていますから、交易はあったわけですが、定常的にきちっとしたルートを設けたのが、この時代だったと思うわけです。

     廻船航路を開発する理由は、年貢米を集めて大阪や江戸に運ぶということと、開発が遅れていた江戸に物資を輸送するということでした。当時は、皆さんご存じのように、大阪が文化や商業の中心であって、上方から江戸に「下り物」が運ばれました。関東の物は、「下らない物」だったのです。もう一つは、鎖国体制が確立したことによって、航路開拓の必要に迫られました。つまり、鎖国のために大船禁止令として、大きな船を造ってはいけないというお触れが出ます。大きな船を造ったら、外国に行っちゃうかもしれないとか、密貿易をやるかもしれないと心配したのです。その時、マストは1本だけということにもなりました。この写真は、実物大の菱垣廻船です。残念ながら閉館になってしまった「なにわの海の時空館」という大阪市港湾局の施設にありました。

     廻船航路開発と聞くと、「航路だからルートを見つけたのだ」と、思ってしまいます。しかし、実際には、多様なことをしていました。つまり、施設のインフラとして航路を設定したけれども、港も造ったり船を雇いあげたりと、いろいろなことをしていました。技術も高めようとしました。灯明台というのも設置しました。それから入港税の免除制度や事故の補償制度も設けました。さらには商品管理や物流管理といわれているようなこともやったのです。ですから、廻船航路開発というのは、ルートだけでなく、今流で言うと「物流システムを作った」ということだと思います。それでは、今我々こんな全体的に包括的に計画できるかと考えると、やはり昔の人は偉かったなぁ、というふうに思うわけです。

     次は、川になります。ここでの川は、物を運んでいた川でございます。ちなみに大淀川という川が宮崎県でございますけれども、観音瀬という岩場がありまして、これが右側に見える水路みたいなものが明治時代に掘った跡でございまして、江戸時代はさらに左側を掘っているわけです。こういう岩場をくり抜きながら船を通行させるという努力をしていたわけです。

     これは、北上運河と貞山運河でして、伊達政宗が造りました。貞山運河の貞山とは、伊達政宗の号でございます。貞山運河は、阿武隈川河口の荒浜から北に向かいます。こちらが北上運河で、北上川の河口に向かう運河です。なぜ運河を造ったかというと、東京の小名木川もそうなのですけれども、海で沿岸を航行するときは必ず横波を受けるわけです。それでは舟は揺れるし危険ということで、横波を受けないように運河を造るのです。これは東日本大震災の前の貞山運河です。この運河によって何が起きたのかというと、地図を見ていただきますが、現在の福島県中央部の阿武隈川の上流から荒浜というところまで舟で来ます。荒浜は、東廻りの廻船航路が出発する場所です。その荒浜から、貞山運河を通って仙台に行く。またさらに北上運河を通って北上川に入り、それ上っていきますと盛岡まで行けるわけです。盛岡という場所は、北上川を舟で行くにはここが限界という場所なのです。つまり、伊達政宗は、現在の福島県から岩手県に至る地域を、舟で行き来できる一大流通圏として作り上げたのです。

     仙台藩は、運河の開削とともに、河川改修をおこない水田も広げました。米を作り、米を運ぶことに力を入れたのです。東京には仙台堀川というのがあるのですが、仙台堀とは、仙台藩の蔵があったところです。仙台藩の米は、当時の米相場を左右するほどだったそうです。つまり、この時代、徳川家康もそうでしょうし、伊達政宗もそうだったと思うのですが、軍事の兵站(ロジスティクス)に長けていた戦国の武将が、その兵站の知恵を活かして戦に勝つとともに、平和な時代になったときには、兵站の知恵を物流に活かして経済を掌握するという図式があったのだろうと思います。確か、司馬遼太郎さんも「この国のかたち」の「市場」のところで書いていたように思います。言い換えれば、物流を確保することは、経済の源泉を握ることでもあったわけです。

     今度は、陸に目を向けてみます。これは「塩の道」です。日本には岩塩がないわけですから、塩は必ず海から内陸へ運ばないといけないので、塩の道が出来上がるのです。実は、全国各地に塩の道があったそうですが、有名なのが信州の塩の道です。この図のように、桑名から笠松あたりまで舟であげてから、その後は陸路であがっていくということになるわけです。日本海側の糸魚川からも、陸路で行きました。江戸の方からは高崎の近くの倉賀野まで舟で行って、それから陸路のようでした。長野県に、塩尻という町があります。尻というのは三田尻などと同じで港とか終点という意味があるようです。黒沢尻工業高校は北上川のたもとにあるラグビーの強い高校ですが、北上川に黒沢尻という河岸があるからです。塩尻は、塩を運んできた到着地だという説もあるようです。

     同じようにブリを運んだり、サバを運んだりということです。関西の方々には馴染みがあると思いますけれども、サバとかバッテラとか、魚を運ぶとことで名産品が生まれます。ちょっと格好を付けると、「運びは文化だ」と言いたいわけです。

     その運びの文化の最高峰が、伊勢神宮にあります。伊勢神宮の式年遷宮では、ご神木を運ぶとき、川曳きと陸曳きがあります。これは20年に1回式年遷宮で使用する材木を川で曳いてくるか、陸で曳いてくるか、ということです。どういうふうにご神木が川から揚がるのか知りたくて、伊勢神宮に電話をかけて聞きました。そしたら、宇治橋の横にスロープがあると教えていただきましたので、何かのチャンスにもう一回写真を撮りに行こうと思い、出かけたのが平成26年11月でございます。前日の11月15日に確か大阪で学会か何か用事があって、その帰りに新幹線で直接東京に帰らずに、この写真を撮るために、わざわざ伊勢をまわったのです。誰も言ってくれないのですが、我ながら「なかなか真面目なところがあるなぁ」と思っております。ここにスロープがあって、ここからご神木が揚がって運ばれていくわけです。これをネタに、「伊勢神宮では20年に1回材木をあげるためにスロープを用意している。しかし、最近のビルを見てみなさいと。毎日荷物を運ぶのにスロープもない。実に、ひどい話ではないか」と意地悪と言っているわけです。

     10年以上前から、東京都環境局とか関東地方整備局の皆さん方とともに、建築物や路上でも荷物の扱い方に関して勉強してきました。そして、やっと今年3月の29日付で国交省がガイドラインを公表しました。私は座長を仰せつかっていたのですが、もし荷さばき施設とかトラック用の駐車場とかが気になる方は、国交省のホームページで、「国土交通省、建築、物流」と検索すると、出てまいります。もし良かったら、ご覧になってください。

     話は戻りますが、伊勢神宮の運びの最たるものは、式年遷宮の「遷御の儀」、つまり神様のお引っ越しでございます。神様のお引っ越しが、伊勢神宮の最大の神事なのですね。考えてみますと、お祭りも御神輿を担いで神様を一生懸命移動させているわけであります。諏訪大社では、7年に1回御柱祭をやっていて、ここでもご神木を運ぶことが神事になっています。つまり我々の身の回りに「運ぶ文化」はすごく身近に多くあるし、実は「神様さえ運ぶ」ということです。こう思って満足しているのは私だけなのかもしれませんが、「運びは文化」と思っているわけでございます。

    1-3 明治時代の殖産興業と鉄道 

     明治に入りまして、鉄道の時代になります。日本最初の鉄道が、新橋・横浜間ですね、二番目が大阪・神戸間。そして三番目が実は北海道の幌内鉄道なのです。それは、薪で暮らしていた時代から石炭を燃やす時代になったときに、北海道の石炭を本州に持ってこなければならないということで、炭鉱のある幌内から小樽の先の港まで線路を引くということだったのです。この写真は、当時の手宮港の木製桟橋でございます。列車がこうやって入ってきて、最後に貨車の床から石炭を落として船に積む仕組みです。小樽には日本郵船の支店があって、石原裕次郎さんも住んでいたことがあって、今では石原裕次郎記念館もあるわけです。

     もう一つの鉄道の話は、申し訳ないのですが、関東の話です。明治から昭和の初期に至るまで、日本の最大の輸出品目は繊維製品でした。1975年に沖縄が祖国復帰を果たすときも、「糸を捨てて縄を買った」みたいな言い方をされたと思います。繊維交渉と取引をしたと揶揄したのですが、そのぐらい昭和の時代まで繊維は輸出産業だったんですね。そのときに、世界文化遺産にもなった富岡製糸工場というのが明治時代にできるわけです。では、なぜ富岡かというと、繭が確保でき、工場に必要な広い土地が用意でき、水が確保でき、燃料の石炭が近くで採れ、外国人指導の工場建設に地元の同意が得えられたということだそうです。では次は、生産した生糸を輸出するときに、どうしたらいいのかということです。最初は利根川から江戸川を経由して、舟で横浜港まで持っていったわけです。ところがそれでは時間もかかり大変だということで、高崎線という鉄道を引きます。荒川に接する川口から作り出してって、高崎まで引くわけです。つまり当時の鉄道は、軍事と産業振興が主目的だったわけです。今でこそ、鉄道は通勤・通学というイメージがありますが、明治時代に高崎から東京まで通勤する人はいなかったはずですから。

     この関東地方の鉄道の図面を見ていただくと、気づくことがあると思います。富岡から高崎まで大宮を経由して、赤羽、新宿、品川から横浜に行く。信州からは、八王子を通って、中央線を通ってもいいし横浜線でもよいのですが、やはり横浜に行きます。八高線については、昔、何でこんなところにこんな鉄道があるのかと不思議だったのですが、後で調べてみると軍事目的として、東京を通過しないで兵員を輸送できるバイパスという役割があったようです。それと同時に横浜に運ぶための高崎線のバイパスにもなっていました。そして到着地の横浜港には、シルクセンターがあります。つまりこの時代、「すべての鉄道は横浜に通ず」ということで、「鉄のシルクロード」だったわけです。それが、当時の日本の国策でもあったわけです。何度も繰り返して恐縮ですが、今も昔も物流は、普段はあまり気がつかないけれども、実は生活や産業を支えているということを申し上げたいわけであります。

     次の話題は、軽便鉄道です。沖縄ではケービンと読んでいるようですが、一般にケイベンと読みます。軌間は762ミリが多いのですが、要するにトロッコと思っていいと思います。北海道や青森の森林鉄道や、九州の石炭の輸送などに多く使われ、珍しいところでは花巻で温泉に行くための軽便鉄道もありました。軽便鉄道も、原則はやはり産業目的だったと思います。このグラフを見てお分かりのように、明治中期に多くの路線が引かれ、その後だんだん減ってきます。なぜ減ってくるかというと、狭いレールの幅を広くして、国鉄に組み入れたということもありました。また、需要が減って、廃止されたということもありました。

     この写真は、汐留駅です。これらの図は、去年出した本の表紙に使わせてもらったのですが、汐留駅です。この汐留駅の図では、客車の手前に鉄道貨車があります。また鉄道貨車の手前には大八車もあります。つまり、大八車から荷物を降ろして鉄道貨車に積むということです。この図を通じて、客車だけでなく貨車もあるよということを見せたくて、この絵を使わせてもらった次第です。汐留駅は、現在こういうビル街になっています。実は、これが大きな問題です。例えば大阪でもそうだと思うのですが、昭和の時代に、運河とか掘りを埋めて道路にすることがあったと思います。「それは、景観を守らず、けしからん」という人達がおられるわけです。しかし、「私からすると船で運んでいた物の輸送を、今度は自動車を運ぶのだとすれば、その分だけ、今までの運河のところに道に造ることも仕方がない」という理屈もあるのだろうと思います。一方で、今まで物のターミナルだった地区をビル街にして、物のことを扱う空間を少なくすることは時代に逆行しているように思います。その象徴が、この汐留などの再開発事業だと思います。これは当時の国鉄の借金の問題とか、いろいろあるから仕方がなかったのかもしれませんけれども、私にすれば非常に残念な話であります。

    1-4 太平洋戦争終結までの兵站

     次に、日露戦争から太平洋戦争終結までに入ります。これは、日露戦争までの鉄道の路線図です。佐世保、呉、舞鶴、横須賀などの海軍の基地や、仙台などをはじめとする陸軍の駐屯地をつなぐ目的があったわけです。もちろん、どこの国でも産業と軍事の目的で鉄道を引くとことは当たり前のことだと思います。ちなみに、これは舞鶴港の写真ですが、このカーブしているのが鉄道の線路なのですね。つまり、岸壁まで鉄道のレールがきていたわけです。そして、これは港までの軍用線の線路を通したトンネルです。

     次に、日露戦争の準備の話をいたします。これは万関瀬戸と言いまして、来るべきロシアとの戦いのために、対馬の東と西を行ったり来たり速やかに移動できるように、掘削したそうです。そういう準備を、明治時代にしていたようです。戦争の準備と言えば、ロジスティクス(兵站)の準備もしてきたわけです。その時代ドイツから陸軍の先生を呼んできて、兵站の重要性、鉄道の重要性など、いろいろなアドバイスを受けるわけです。艦砲射撃を避けるために、鉄道は内陸に通しなさいとアドバイス受けるのですが、資金のこともあって、実際には東海道線を作るわけです。そのような準備をしながら、ご存じの日本海海戦を迎えるのです。

     日本海海戦というのは、朝出発してお昼頃の最初の1時間で勝負が決まるような戦闘(Battle)です。私が思うには、戦争(War)というのは、第一次世界大戦以降、総合的な経済力の戦いというような認識が生まれたようです。しかも兵站(Logistics)をやっつけるのは効率的と学ぶわけです。この背景には、第一次世界大戦でイギリスの補給艦が、ドイツのUボード(潜水艦)に沈められていく経験があったわけですね。ですから兵站(Logistics)には、相当な注意を払うことになります。欧米はそういう認識だったのですが、日本はそういうことにはいかず、いや大丈夫だよと、丁字戦法とか何とか戦法でやるとうまく行くぞとか、気合いで行けば大丈夫みたいな話になっていきます。要は日本海海戦というのは、戦争(War)ではなくて戦闘(Battle)ですね。戦争と戦闘は、全然違うわけですが、このときは戦闘が戦争の終結をもたらしたわけです。そこで、戦闘に勝つことを戦争に勝つことと勘違いをしたのだろうと思います。

     日本海海戦をサッカーにたとえていうと、ホームかアウェイかという区分では、ホームの戦いです。朝鮮半島の港から対馬沖に出てくればよいのですから、確実にホームの戦いです。一方のバルチック艦隊は延々と欧州から長旅でやってくるわけですから、アウェイの戦いですね。「短時間で兵站も考えなくてもよい『ホームの戦闘に勝った』」という事実、そのことで「兵站が重要な『アウェイの戦争にも勝てる』」と勘違いをしたのだろうと思います。その結果、アウェイのミッドウェイだとかガダルカナルで食料や物資の補給が間に合わずに負けていったと思っているのです。この根源をたどると、日本海海戦に始まる大鑑巨砲主義が、日本の物流感に大きく影響し、兵站軽視のきっかけになったのではないかと思っているのです。これは、海軍兵学校とか海軍大学校の授業科目でありますが、運用術とか艦砲とか機雷とかそういうのはあるのですが、兵站という言葉はないのです。関連があるとすると、海上交通保護ぐらいですかね。つまり、戦術論が大好きだったわけですね。この結果、だから太平洋戦争になって最後は「B29には竹槍で勝て」みたいな話になっていたという感じがするわけでございます。

     太平洋戦争では、輸送船が襲われて多くの船員がなくなりました。私がお世話になっていた東京商船大学(現東京海洋大学)の出身者が多く亡くなるわけでございますけれども、死者そのものは軍人が230万人で、一般の人が80万人、船員が6万人です。ただし、比率でいうと、陸軍は戦没者が20%で海軍が16%で船員の43%が亡くなります。特に戦没船員がいつ亡くなったかというと、昭和19年に42%ですね。20年になると8月までの間に35%です。つまり、太平洋戦争末期になると、護衛がつかずに補給艦が単独で、ひたすら敵の標的にされた時期になるわけです。

     ある博物館に行ったときの話です。お客さんが、案内の方に聞いていました。「戦争のときの船乗りで一番大変だったのは誰ですか」と。そしたら案内の方が「それは潜水艦ですよ」と言いました。「狭くて大変なのですよ、息苦しくてね」と。「分かりました、では一番楽だったのは誰ですか」と聞いたら、「それは補給艦ですよ、戦わなくていいのですから」とこう言ったのですね。ムッとしたわけですが、そんなところで喧嘩しても仕方ないので、すごすごと帰ってきました。よしこれは絶対に本に書いてやろうと思ったものの、でもきつく書くのはまずいので、まぁチクリという雰囲気で書いたわけです。書き上げた文章を秘書さんに見てもらったら、「先生、これは品がないから止めたほうがいいですよ」と言うので、削除しました。ですから、ここで話しているわけでございます。その「楽と言っている補給船」は、護衛もつかないまま、武器も持たないまま、ひたすら敵の標的となって沈んでいったのです。

     では、戦後、どのようなことが起きたか考えてみたいと思います。先ほどお話ししたように、陸軍の20%の方が亡くなり、海軍の方が16%亡くなったということは、逆に裏返すと、兵站軽視の陸軍の教育を受けた方は80%生き残り、海軍の教育を受けた方は84%生き残ったのです。このように兵站軽視の教育を受けた人が、戦後に民間企業に散っていくのです。軍人時代の知識を活かし、元陸軍軍人が商社で活躍する小説もありましたし、技術将校が新幹線の開発に携わる話もあります。しかし、軍隊で兵站軽視の教育を受けた方が、戦後民間企業に入ったとき、急に兵站を考えるなんてことは無いだろうと思います。だから、戦後の日本の民間企業も兵站軽視を引き継いだのではないか、それが現代のロジスティクス軽視に影響しているのではないか、と思うのです。

     また、オペレーションズリサーチのように、応用数学を用いて解析する方法論ですが、欧米で戦争を境に発展していきます。日本の特攻隊を避ける方法の解析などをするわけで、今で言うところのビッグデータみたいな解析をするわけでございます。そうやっていくわけですが、アメリカもそういうことをやっていたわけですが、日本はそういうことをやっていた部署もあったようですが、実はあんまりそういう意見は採用されなかったようです。気合が重要だったということでしょうか。現在、医療や金融の世界でも統計学など理系の知識が必要な時代になっていますが、日本企業の多くは、「物流は文系の仕事で、コストダウンと下請け叩きで頑張ればよい」という程度の認識だと思います。つまり、戦争中の参謀本部の兵站軽視と同じような感覚なのだろうと思います。

     この系丹慶氏の考え方については、もちろん反対意見もあることでしょう。例えば、コンビニや宅配便など、日本のロジスティクスがすごいではないかという意見もあるでしょう。もちろん、コンビニや宅配便はすごいのですけれども、私は「日本人がロジスティクスを重視しているからすごいのではなく、日本人が作業現場での職人気質を発揮して丁寧な仕事をやるということで、結果的に高いレベルを維持できている」と思っています。日本社会が全体として、物流だとかロジスティクスを重要だと認識しているかと聞かれるならば、そんなことはないし、いまだに軽視しているというのが、私の見解です。

     作家の司馬遼太郎さんは、「鬼胎」の40年という表現をしています。鬼を宿した40年ということでございます。つまり明治維新から約40年経って日露戦争になる。これが「坂の上の雲」ですね。それから40年経って敗戦を迎え、その後約40年間経ってバブルが崩壊している、というようなことが書いてあるわけです。これを、司馬遼太郎さんがここを言っているわけですね。この時、日露戦争からの40年だけ、日本でなかったようだという話です。この、おかしかった状態は、ちょっとうろ覚えでありますが、「このとき、実は国民全体も意識が高揚していておかしかったのではないか」というようなことを、司馬遼太郎さんも書いておられます。それから、歴史の先生である船曳建夫さんも、詳しく解説されておられます。

     これ以降は、拙著「ロジスティクスの歴史物語(白桃書房、p132~p133)」の引用です。

     司馬遼太郎は、『この国のかたち、第3回、"雑貨屋"の帝国主義』のなかで、以下のようにまとめている。「調子狂いは、ここからはじまった。・・・私は(日比谷公園で開かれた全国)大会と暴動は、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に-たとえば参謀本部に-蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。むろん、戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義にも原因はある。また煽(あお)るのみで、真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあった。当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい。」

     別の本では、ある文芸評論家が司馬遼太郎さんに、ちょっと意地悪っぽく質問するエピソードを読んだ記憶があります。内容は、「日露戦争以降のことは書かないのですか」というような質問だったと思います。本当は書きたかったのかもしれませんが、明るくは書けなかったのかもしれませんね。ですから、司馬遼太郎さんにチクリと言いたい人は「『坂の上の雲』の後がないじゃないか」みたいなことを書いている人もいるということです。

     ここで、歴史の話をまとめておきましょう。江戸時代は、兵糧攻めに備える城と町ということで兵站を重視していた。兵站というのは、「戦略、戦術、兵站」という軍事の三大用語の一つであります。兵站に詳しい先生に教えてもらったのですが、「戦争のプロは戦略を語る」のだそうです。「戦争の素人は戦術を語る」と。そして「本当のプロは兵站を語る」ということだそうです。これで終わるのかと思ったら、「本当の素人は兵器を語ります」ということでした。明治時代に転換点がありました。日本海海戦では、対馬海峡の制海権を確保して、朝鮮半島への兵站線を守る戦いだったはずでしたが、実際には、「戦術と戦闘」で勝ち、「兵站なんかいらない」というような雰囲気になっていきました。兵站軽視と大艦巨砲主義の定着、シーレーンや商船保護の軽視ということになったのでしょう。繰り返しになりますが、「兵站を守る戦いに、戦術・戦闘で勝つこと」により、「戦略・兵站の軽視が決定づけられた」と思います。これが、戦後の兵站軽視や物流軽視につながっていると思うのです。

    1-5 戦後のロジスティクスの変遷

     では、次に、戦後の日本は、どうなっているかということです。戦後の日本は、「兵」という言葉を忌避することも、兵站軽視に拍車をかけたかもしれません。

     実は私が東京商船大学に勤めているときに、ある学会で兵站のことを勉強したいということで、自衛隊の幹部学校の先生をお呼びしたのです。先生は大学に来るまでは背広で来たのですが、大学で着替えて迷彩服で講演するのです。開口一番、最初になんと言ったかというと「皆さんもご理解いただけるでしょうが、私たちの若い頃に自衛隊員が国立大学に中に入って講演するなんて想像ができませんでした」と言いました。私は、確か当時は副会長だったと思いますが、別に気にもかけずにお呼びしたのですが、昔の学生運動を思い起こすと、頷けます。そのような「兵」とか「軍」という言葉に対して忌避する気持ちがあることも、兵站やロジスティクスが定着していない理由の一つかもしれません。

     東日本大震災があったときに、国交省でどういうふうに緊急支援物資をどのように供給するかを考えようということで、9月に初めて12月くらいでまとめたと思います。このときお手伝いしたのは、私とあと2人でした。そして、東北地方整備局と関東地方整備局と中部地方整備局と近畿地方整備局、の4箇所で早く緊急支援物資の供給方法の作戦をたてることになりました。私は、たまたま東北と中部の座長をさせてもらいましたが、そのとき委員だけで40~50人くらいでした。国防省ないし自衛隊をどうするかという話があったので、私は絶対に委員に入ってもらいたいと言いました。結果、制服組の方が委員になってくださいました。心強い思いをしました。

     ちなみに、ロジスティクスないし物流を専門とする学科を持っている大学の数ですが、アメリカは185、ドイツは45で、中国では私が一昨年知り合いに一回調べてもらったら485でした。特にアメリカでは、ミシガンとかジョージア工科大学とか理系も多いわけです。日本では、物流を専門とするカリキュラムを用意している大学は、4つしかありません。昔の東京商船大学(現東京海洋大学海洋工学部)と神戸商船大学(現神戸大学海事科学部)と流通科学大学と流通経済大学だけです。なんでこれだけ違うかということなのですが、これには日本の会社の採用の考え方が大きいでしょう。「物流は文系がやればいいんだ」とか、「業者を叩けばコストダウンができるので専門の人材は不要、だからアウトソーシング」というような感覚だと思っています。現在、たとえば金融工学というように、またビッグデータやIOTなどのように、他分野では理系と文系の両方を学んだ専門の人材の重要性を認めています。しかし、なぜか、物流やロジスティクスに関しては、そういう理解には至らない。近年、物流やロジスティクスへの関心は高まっていると思いますが、一部の企業を除けば、残念ながら兵站軽視は今も続いていると思います。

    【2.都市の物流システム】

     歴史の話、40分のつもりが1時間近くになってしまいましたけれども、言いたかったことは、いつの時代も物流が重要なのだということです。次は、一歩下がって、物流とは、本当はどんなものかということを、お話ししたいと思います。

     物流というと、つい輸送と思いがちですが、輸送は物流の一部でしかありません。物流には、輸送、保管、流通加工、包装、荷役などがあります。ですが、解りやすい話からということで、輸送の話から始めます。戦後の貨物輸送は、荷役の機械化や、路線トラックの発展がありました。身近なところでは、昭和50年代に宅配便が始まり、次に温度管理をするクール便ができて、現在では、ネット通販ができて宅配サービスが増えています。現代の日常生活の便利さを支えているのが、物流なのです。

     ロジスティクスは、昔の日本語では兵站です。ロジスティクスを簡単に言うと、生産してから消費するまでの間を担います。このとき、「商取引流通」と「物の流通」があります。「これをください」と注文してから「物」が届きます。例えば、「ピザの出前をください」と電話で頼んだら「商取引」で、次にピザを作って家に届けるまでが「物流」で、「商取引の流通」と「物の流通(物的流通)」の二つで、ロジスティクスです。

     「物的流通」という用語は、昭和32年、フィジカルデストリビューション(Physical Distribution)という英語を直訳した用語です。一方で「物資流動」という言葉があります。東京都市圏物資流動調査、京阪神物資流動調査など。かたや「物的流通」かたや「物資流動」ですが、両方とも略すと「物流」になるので、物流と言っていても「物的流通」と「物資流動」と2種類あるわけです。ただし話しているご本人は、1つしか思い浮かんでいないので、信念を持って語っています。どのように違うかというと、「物的流通」は、輸送・保管・流通加工・包装・荷役などを、全部ひっくるめています。一方での「物資流動」は、輸送だけを考えているのです。ですから、物資流動を考えている交通分野の人は、建物の中に何トンのお米があるのか、10トンあるのか100トンあるのか、1000トンあるのかは無関心で、トラックで何トン輸送しているかしか興味がないのです。しかし一方の商売をやっている人は、在庫の方が気になるわけです。

     私も土木出身なので、自分を責めるということでお許しいただきたいのですけれども、都市計画や交通計画の本を読んで、「物」のことはほとんど出てきません。2,3ページです。いいとこ、港の平面図とか倉庫が入ってそれで終わりですね。交通計画はほとんどが人の交通計画です。人の場合は、保管とか包装とか荷役という概念がないのです。人間は、「電車にお乗りください」と言えば、勝手に電車に乗ってくれます。ところが、物は違います。「おい、時計君、君、トラックに乗っておいて」と言っても、乗ってくれません。ですから、人の交通からはいると、実は輸送は分かるけど、荷役・流通加工・包装などの概念が、なかなか理解できないのです。そのため、ついつい「輸送」だけを議論してしまい、失敗しがちなのです。

     さらに困ったことには、貨物車交通を物流と言うこともあります。例えばテレビで、女性アナウンサーが、「皆さん、今日は高速道路が物流で混みあっています。こんなにトラックが通っています」って言うのです。「えっ、なんで。トラックの中が空っぽで貨物が無くても、物流と言うの?」と言いたくなります。もしも、「バスに乗客が乗っていなければ、『人の交通が多い』とは誰も言わない」ですよね。ところが、トラックは中の物が見えないものですから、「空っぽであろうと物流が多い」と言うわけです。もちろん、道路計画や交通計画をやるとき、一車線当たり何台通るとか、1日あたりの交通量何台とか、台数を単位にします。貨物車の台数や乗用車の台数で計算するのですが、「台数が多いことと、物が動いていることは全然違う」というわけですね。しかし、そのことがなかなか区別されてなのです。これは、兵站軽視というよりも、交通計画や交通工学の教育の問題だと思います。

     たまたま昨日、午前中、本省で総合物流政策大綱の第5回目の会議がありました。私は「物流という用語のワーディングは気をつけてくださいね、皆さん誤解するといけないから気をつけてくださいね」と申し上げました。そしたら昔から親しくしている座長の先生から、「そりゃぁ、確かにそうですね。でも、私と先生と2人の間でも物流で議論して相当時間がかかりますよね」と、冷やかされました。要するに、それぐらいの感じなので、言葉の混乱が起きるわけです。しかし、いくら混乱があろうとも、物流と言う言葉がテレビで普通に使われるようになっていること自体は、歓迎しています。

     今度は、サプライチェーンの話になります。サプライチェーンも、いろいろな考え方があるのです。つい2週間ぐらい前に、「サプライマネージメント概論」という本を、教科書として出しました。ここでは、サプライチェーンの概念を、農場から工場、センター、店舗、住宅まで、施設を経由して届く場合。もしくは、商売として、調達して生産して卸売業者に行ってから小売業者に行って、販売されるという商取引に着目した場合があります。このとき、施設に着目して、工場とセンターの間では、商取引として発注してから受注する(商取引流通)。その後、物流(物的流通)として、生産してから製品を届けます。この商流と物流の二つで、ロジスティクスが構成されます。

     さらに物流のなかの輸送には、配車計画として、貨物、車両、燃料、運転手が必要です。さらに運行計画として、積み込み、経路、道路、渋滞の有無が重要です。ですから、物流を議論するときには、こういう階層構造の中で議論していただきたいのですが、なかなかそういかない場合があります。実際のロジスティクスは、皆さんコンビニでお買い物されれば分かると思いますけれども、実際に物がどこで置いてあるか、その在庫はどのくらいあるか、そしてレジの仕組みなど、商取引や在庫などが重要です。また商品は腐ってないか、そして商品はいつ作ったものか、いつまで販売できるかなどの仕組みができあがっているわけです。もちろん、どのように商品を輸送し、トラックのルートを通るかも重要ですが、あくまでも、輸送は全体の中の一部なのです。

     このような仕組みは、技術レベルの違いこそありますが、基本的な考え方は、江戸時代の廻船航路も現代のコンビニでも同じで、物流管理、商品管理、などという概念でまとめて考えることができます。昔も今も、やり方は違うけれども基本的な仕組みは同じなのだろうと思います。この仕組みを支えるインフラとして鉄道や道路や港湾などの施設があったり、技術があったり、法制度があるということだと思うんのです。

     昔、公共事業の評価で、かけたコストに見合った効果があったかどうか、というような議論があったと思いますね。その時にも議論になったのですが、港があれば貨物が来るのだろうか。いや、それは違うだろう。港があったっても、貨物が来ない場合がある。同じように、道路があっても貨物が来ないときがある。なぜかというと、港や道路などの施設は、必要条件ではあるけれども、十分条件ではないということなのです。だから、施設は無ければならないが、港さえあれば貨物が来るということにはならないのです。物流に必要な仕組みが全部整い、しかも需要があるところで、物流が起きるというように考えています。

    【3.都市物流問題の所在と基本的な方向】

    建物・施設系の法制度の問題

     さぁ、次は、今どのような物流問題が起きているかということで、都市の物流問題をお話ししたいと思います。

     都市物流計画における問題の所在ということで、まず一つ目は、建物・施設系の法制度の問題です。例えば、大店立地法というのがございまして、どういう荷物を何時どのように持ってくるのか、そのときトラックの止まる場所はちゃんと用意されているのか、周辺に騒音や振動で迷惑をかけていないか、というようなことをチェックしています。趣旨はいいのですけれども、開店前には「いやぁ、うちはこうやって持っていくから大丈夫です」と言っておいて、実際に開店すると違うみたいなことが時々起きたりします。

     駐車場法というのは、大きい建物を建てたら、そこに人が乗って来る乗用車のための駐車場を用意しておくべきという考え方の法律です。このことは確かなのですが、その駐車場法を作ったときの昭和20年代は、対象の車両に貨物車が抜けていて、乗用車だけを対象にしていました。いろいろな事情があったようです。ところが平成の時代になって、貨物車も必要という話になって、貨物車も対象となります。しかし、自治体が駐車場の条例を作るとき、トラックは最大10台でいいと決めてしまうのです。ビルが大きくなると乗用車の駐車場を増やせと決めながら、なぜか貨物車は最大10台でいいと決めてしまいました。それがいまだに直っていないのです。

     一方で、台数ではないのですが、建築物における貨物車用の駐車荷さばき施設の設計について、この3月に国交省がガイドラインを作りました。小生が、座長でした。駐車場法の所管と課が違うものですから、駐車場法には一言も触れずに、建築設計での注意事項などをまとめています。

    道路・路上駐車の問題

     次は、道路の問題です。まずは、道路構造の問題です。駐車帯を設けた道路が必要だろうということです。つまり商店街があって商店があると、そこには必ず荷物が来るわけですから、必ず駐車して荷おろしします。しかし、トラックを遠くに停めて店には台車で持って来いというのは、無茶な話です。誰だって引っ越しのときは、玄関の前に車を止めたいことと同じことです。それなのに、なぜパーキングメーターというのは乗用車優先なのかということですね。貨物は歩けないのですが、人間は歩けるのだから、乗用車は遠くに停まってもよいはず。これは、イギリスでは、このような思想がありますが、後で紹介いたします。それはそれとして、なぜ日本は、荷さばきに冷たいのか、理解できません。交通指導員が、停車場所もない商店街で、おろししているトラックを駐車違反でつかまえるのは、ずいぶんと可哀そうな話です。これも、きっと、日本の兵站軽視の伝統が影響しているのでしょう。

     建物の駐車場にトラックが入れないことや、荷おろしを考えていない建築設計の問題も大きいです。オーナーは賃貸する床の採算性は考えても、物流を理解しようとする人が少ない。建築設計者が、デザインを重視して実用性を考えないこともあります。口の悪い友人が私に向かって、「都市計画屋とか土木計画屋とか建築屋は、だいたい嘘つきだよね」と言うのです。「えっ、何々どういうこと。俺たちが嘘つき?」と聞くと、「だいたい、やっていることが商品偽装じゃないか」と言うのです。つまり、「お菓子の箱とかカレーの箱の絵が、中身と違っていたら、商品偽装になる。ところが、土木屋や建築屋が描く完成予想図は、実態とは全く違う。建物の完成予想図で、トラックが停車していることはない。電線も描いてはいない。いつも欧米人みたいなスタイルのいいやつばっかりが歩いている」とこういうことでした。最後には「電線もなくトラックもない街を作ってみれば」みたいなことを言うわけですよ。きつい冗談なのでしょうが、われわれにとっては、極めて耳の痛い話でもあります。いつか、困った風潮を変えて、友人から意地悪を言われないようにみたいと思っているわけです。

    宅配便と消費者の問題

     もう一つ変わるだろうと思うことがあります。それは、荷主の過度な要求です。宅配便で言えば、消費者のわがままもありますが、これから変わると思います。今まで宅配便などは、すべてサービスは向上させなければいけないと、当たり前に考えていました。ところが、2月23日にヤマト運輸の労組が経営者に「限界だ」と申し入れたニュースが出ました。私はNHK松山放送局にいて、1時45分からの番組収録の直前にお昼のニュースに「これが出ます」と原稿を見せてもらったので、覚えているのです。その番組のタイトルは確か「"宅配危機"、ネット通販拡大のかげで」でした。今までは「早く持ってきて、夜持ってきて、再配達して」とサービス向上を追求していたのが、サービスを抑制する時代になったと思うのです。もう消費者の方も、我慢してくださいっていうことです。その番組で私は、「需要の少ない地域は、宅配便は毎日来なくてもよいでしょう。月水金とか、火木土とか。地域によって分けてもよいでしょう。注文する人も、月曜、水曜、金曜日に合わせて注文すれば良い」というようなことを発言しました。そういう時代です。ビールを1本ずつ、月曜から土曜まで毎日運べと言うほうがおかしいわけですよ。だったら6本をまとめ買いすればよい。私は、その程度のことは、当然消費者も考えるべきと思います。

     それから、待機車両問題というのがあります。皆さん方、お気づきかどうか分かりませんが、待機車両と言って、時間待ちの車両があるのです。港ですと、ターミナルが空くのを待っている待機車両があります。建築現場の側には、コンクリートミキサー車が並びますね。それから出発地で並ぶ代表には、新聞社があります。ある大きな新聞社の前の路上では、夜11時から1時くらいの間に常時20台か30台アイドリングをしながら止まっています。そして、印刷工場からの電話で走って行き新聞を積み込むのです。ところが、その会社の看板には、「環境にやさしく、地域と共生」と書いてあります。配送の途中での待機車両は、コンビニの車があります。まだ東京商船大学に勤めていたころ、正門の前にいつもコンビニの配送車が止まっていたので、「最近コンビニの車が待ち時間調整のために大学の正門の前に止まっていますが、そういうことってあるのですか」って聞いたら、「いや、絶対にありません。少なくとも、うちは絶対そんなことさせません。他のコンビニならあるかもしれませんが」とのことでした。「いゃぁ、そうですか」と言いましたが、さすがに「あなたの会社です」とは言えませんでした。今はだいぶ減っていると思います。

    オフィスやデパートの問題

     オフィスやデパートの問題もあります。つまり、むかしは、港と港の間で貨物を運んでいた時代から、今は都市の中に入り込んできています。どんな製品も、最終的には、消費される場所に届けられます。この最後の場所が、工場や事務所や公共施設、商店、飲食店、オフィスなのです。

     一例を申し上げますと、ある政令指定都市の都心部を預かっている宅配便のセンターでは、1日トラックが約500台前後は出入りするとのことです。南関東の店舗への配送を担当している冷凍食品の流通センターでは、1日約250台出入りします。ところが、東京駅の駅前の新丸ビルは1日約650台来ます。つまり宅配のセンターや冷凍食品の流通センターよりも、トラックの台数は多いのです。オフィスで私の計算でいきますと、そのビルは6万人出入りするので、6万人で650台ですから、オフィスビルに100人出入りすると1台という計算です。デパートは、もっと多いのです。デパートは50人出入りすると1台トラックが来るという計算です。考えてみますと50人のお客さんが紙袋1個ずつ持ちかえるとすれば、紙袋50個分を運び入れる必要があります。これで1台分ということです。

     しかし、多くの人達が、「工場や物流センターだけが、物流の場所だ」と思っているようです。実はとんでもないことで、オフィスにもデパートにも物は集まっているのです。よく考えていただきたいのですが、若い人の行動を見ていただきますと、家で朝起きたら朝飯を食べずに家を出て、会社の近くのコンビニでサンドイッチを買う。昼食は、社員食堂で食べる。夜は、会社の近くで買い物してから、近くの飲み屋で同僚と飲む。そして、家に帰るが、家では何もやってないことになります。全部、会社のある都心で生活行動をしているようなものです。そのためには、都心に物を運ばなければならないのです。そういうような状況が、今起きているのだということであります。

    日本の物流政策

    ここで、日本の物流政策の変遷をお話いたします。日本で物流政策はどのように考えられてきたかというと、実際始まったのは昭和40年前後です。ここから少し時間があって、昭和48年のオイルショックで、区切りがつきます。このとき、すごい人達がいました。当時の運輸政策審議会(現在の交通政策審議会)で、都市交通部会の貨物輸送小委員会のことです。そこが報告を出すわけです。ターミナルをちゃんと作れとか、都心にもトラックベイを作れとか、住宅地に共同の荷物の受け場所を作れとか、いろいろなことを報告しているのです。さらには、道路容量と物流の需要量を整合させなさいと書いてある。つまり趣旨は、ビルは8階建を40階建てにできるかもしれないが、道路は1階建を5階建てにはできない。だから、建物の床面積と道路容量のバランスを考えなければならないというようなことを、書いているのです。当時の人たちは、ほんと偉いと思います。極めてシンプルでクリアーな計画思想で、だれも反対できないと思いますが、これを、いまだに越えられませんし、実践もできていないのです。

     よく考えてみますと、この運輸政策審議会は、今の交通政策審議会なのです。ここで貨物輸送小委員会という名前を、物流サービス小委員会に変えてみると、なんと実は、私が座長なのです。「当時の人たちは偉くて、今の座長はダメだ」という話になってしまったら、悲しい話です。当時、提案のあったトラックベイは、少しずつ実現していたり、駐車時間規制も少しは導入されていたりしますし、先ほど話したように今年の3月にガイドラインを作ったわけでありますが、力不足を反省するしかないと思う次第です。

     このオイルショック以後、十何年か時間が空いてから平成の時代になって。多くの政策が世に出ていきます。これはまだ続いていて、ブームという感じでもあります。皆さん方、あまり感じないのかもしれませんけれど、兵站軽視ではあるものの、少しずつ物流に対する意識が多少は変化しているように思うのです。

    これからの物流の課題(平時と有事)

     それで、これからの物流の課題は何かということになります。昨日も総合物流政策大綱の委員会で、もうちょっとメリハリを付けたほうがいいのではないかということを申し上げたのです。これはどういうことかというと、今この時期、人口増から人口減に変わりました。都市は、拡大から縮小に向かいます。そのように、日本が大きく変わる時期なのです。このとき、私は、平時と有事の物流に分けて考えるべきと思います。もう一つ加えれば、東京では、オリンピックがあります。

     平時の物流では、少子高齢化対策に関連する対策が、絶対に必要なのだろうなと思うわけです。中山間地や大都市での、買い物弱者対策。昨今の宅配問題も、人口減による労働力不足と考えれば、少子高齢化の一側面でもあります。それから、2020年には、大阪まで影響があるかどうか分かりませんが、東京ではオリンピックがあります。

     オリンピックも大変です。さっき言いましたように、オフィス6万人で650台のトラックが必要ですが、国立競技場は8万人入ります。オフィスと同じだったら一日800台、親戚の分のお土産まで買うとしてデパート並みになるならば、1600台です。1600台を夜の10時から朝の6時の8時間の間にさばくとしたら、1時間に200台です。大丈夫でしょうか。とても心配です。

     そして、災害です。後で話しますが、東京では30年以内に70%の確率で起きると言われています。言われてから10年くらい経っています。ということは残りの20年に8割ぐらいの確率で起きるのでしょうか。首都直下型地震では被災人口が3000万人くらいになると言われています。東日本大震災で、東北地方の900万人が被災したときでも、東京のお店から物資がなくなりました。では、首都圏で3000万人が被災したときは、どうなるでしょうか。当然、物資は不足することでしょう。だとすると、その対策を立てなければならないのです。極端に言えば、東京都民は全員1ヶ月分の備蓄を義務付けるというようなこともあるでしょう。要は何かしないと間に合わないはずです。ところが結構、今でものんびりしている感じがします。時代は大きく変わっており、地震もやってくるのだから、物流政策も変わんなければならないと思っています。今の日本で何が最も重要かと言えば、災害大国だからこそ、対策が必要だと思っています。

    【4.産業と生活のための都市物流計画(平時)】

    4-1 広域物流拠点
     
     これから、平時の計画についてお話いたします。普段の我々の生活の中で物流を考えるとなると、どこからどのように持ってくるか、道路を使うのか鉄道で使うのか、そして環境は守れるのか、というような感じだろうと思います。今日の皆さま方のご興味になるかどうかよくわからないのですが、空港や港湾の整備、道路のネットワークの整備は、これからも必要でしょう。

     大阪の状況はよく分かりませんけれども、東京都市圏の場合、圏央道ができて、その周辺に物流施設ができています。いままで完成した圏央道は、特に西の方で、国道16号線と近かったものですから、物流施設が移転にインセンティブが働いたということもあります。また、東北道とか関越道とか東名道とか、貨物の輸送需要の多い地域につながっていました。最近完成した東の方は、あまり需要が多くないかもしれません。それよりも大事なのは、大阪もそうかもしれませんけども、東京の場合、湾岸エリアで小さい倉庫がいっぱいあるわけです。そこをリニューアルしなきゃいけないわけですね。例えば、東京湾沿岸の冷凍冷蔵倉庫は6割以上が築30年以上ということです。地震がきたら非常に危ない。だからこそ、老朽化対策が必要と思います。

     これも、東京の話で申し訳ないのですが、これが古いタイプの流通団地であります。これ高島平です。つまり、以前は、貯蔵型の倉庫、タテ型でエレベーターを使い、ときおり貨物を出し入れするという話でした。この倉庫が、いま、タテ型からヨコ型に変身し、どの階も車が横付けできるように変わっているわけです。例えば東京のモノレールの流通センター前という駅がありますけど、この周辺では建て替えが始まっています。冷凍倉庫の建て替えは、国交省の市街地整備課の補助制度の第一号だったと思います。みんなで一緒に建て替えるとき、共用施設の建設費を補助するという制度です。一方で、臨港地区の中でも港湾局の補助制度があります。国交省の都市局と港湾局が、震災対策も考慮に入れて、建て替え対策を進めているのです。何年か前からいろいろな議論をしてきて、ここまで来たという感じです。このように建て替え需要が増えてくると、圏央道沿いの需要もさることながら、物流施設は湾岸部への回帰が始まるのではないかと思っています。

    4-2 貨物車の優先通行と停車可

     次は、皆さま方は直接ご関係がないかもしれませんけれども、貨物車交通の話です。これは、ロンドンのレッドルートという道路です。交通計画の人達は「駐停車禁止道路」というふうに訳します。しかし、ここを見てください。レッドルートというのは、ノーストッピングであって絶対に止まっちゃいけない。これイギリスって、おもしろいですね。ノーパーキングではなくて、ノーストッピングなのです。駐車どころか、停車してもいけないのです。下の標識は、月曜から金曜の昼間はノーストッピング。その次はおもしろくて、エクセプトローディングと書いてある。要するに荷おろしだったら停まって良いのです。この標識が、私は一番好きなのですけど、エクセプトローディングで「荷物を降ろす人は20分ならいいよ、車いすの人は3時間いいよ」ということです。逆に、それ以外は停まってはダメということです。つまり、乗用車はダメっていっているわけです。

     日本のパーキングメーター見てください。乗用車ばっかりでしょう。本質的にイギリスと考え方が違うというのが、私の理解でございます。私は、イギリスのほうが、よっぽども理にかなっていると思っています。これも、日本の兵站軽視の影響だと思っています。

    4-3 荷さばき施設計画

     荷さばき施設の計画には、どんなものがあるか、ということですが、まずは、路上の駐車施設から行きます。これは福岡でございます。大阪にもあるだろうと思いますけれども、貨物用路上駐車施設で、6時から20時までトラックのみが駐車できます。これはだいぶ増えてきました。これ珍しいのですが、広島の繁華街で、8時から18時はトラックで18時から8時はタクシーが駐車可です。要するに、昼間は荷おろしのためのトラック、夜は飲み屋帰りのお客さんを拾うタクシーが停まれる。乗用車は、停まってはいけないということです。イギリス風の感覚で、広島の警察はすごいですよね。とても粋な感じがします。

     次は、地下駐車場に行きます。これも福岡の駐車場なのですけれども、地下駐車場の一部に荷さばきのためのスペースがあります。台車に貨物を乗せてから、この横の緑のエレベーターで地下一階に上がると、地下商店街の核店舗に配達できるのです。この駐車場の一部には、隣接するビルの地下とトンネルで結んでいます。つまり、それぞれのビルが地下の駐車場までの車路を作るともったいないですし、ウインドウショッピングできなくなってしまいます。それじゃいかんというので、地下駐車場から自分のビルまで横に穴をあけて、そこから貨物車を自分のビルに入れているわけですね。この考え方を、いろいろな場所で応用してみたいと思っています。

     今度は、高層ビルの配送です。これは、東京ミッドタウンという高層ビルです。ここには、大きなトラックが停まって、こんなにゆとりのある地下駐車場があります。荷物を降ろせて、荷をさばけて、ここで貨物を仕分けして、荷さばき用のエレベーターを管理しています。そして店舗の裏には、物のための動線が用意されています。だから人が動いているところと、ものが動いているところは全く別になっているわけです。これには、「高級なビルを作るのだ」という、不動産会社の気合が感じられます。よく言うのですが、良い住宅には玄関と勝手口があります。高級なホテルは、玄関から食材が入ってはこないで、裏から入りますね。同じように、都市の中でも、人の動きと物の動きを分ければ、よい都市ができるはずです。そういう工夫を、いくつかお話しします。

     これは、品川のインターシティというところでございます。こちらが品川駅で、こちら側は海側です。左が東京駅で、右に行くと大阪です。ここ見てください。入り口からビルの地下に入ります。そうすると地下にトンネルがあります。トンネルには、トラックが入って来ます。何をやっているかというと、それぞれのビルの地下には荷さばき場があって、そこに行き来ができるようになっているのです。実はこの土地は、もともと品川の貨物駅でした。貨物駅を廃止してオフィス街にしたのですが、本来は貨物のための土地だったのですから、地下にトラックターミナルくらいあっても良かったと思うのです。新宿も汐留もそうですけど、少しくらいは物流のために土地を用意してくれてもよかったと思うのです。

     これは、私がお手伝いしている大丸有でございますけど、大丸有というのは、大手町・丸の内・有楽町のことです。ここが東京駅でこれは有楽町ですね。こういうふうになっています。この辺が大手町でございますが、皇居があります。このエリアをどういうふうにやっているかというと、ビルを建てたときに下に駐車場を作ってその駐車場を結んでいくということです。このトンネルは、丸ビルと新丸ビルを結ぶ地下の通路でございます。今で約20棟の高層ビルが建っています。最初の5棟くらいは間に合わなかったのですが、その6棟目くらいからは、協議会の下で駐車計画を審査しているわけです。もちろん、セキュリティーの問題で協力できないビルもありますが、そういうビルを除いて、ビル間で繋がってもらおうということです。そうすると何が起きるかというと、端っこのビルに入ったら、ずっと地下通路を行き、配送が終わってから地上に出ることができます。この間、地上からトラックの姿は見えません。東京駅の前の新丸ビルには、一日約650台のトラックが来ているわけです。高層ビル一つ一つに500台ずつ来るとしたら、20のビルで一日1万台です。それを何とかして見えないようにして、景観を良くして、しかも荷物をうまく動くように処理しようということです。

     我々が一番嫌なのは、不動産のオーナーのなかには、「何で俺たちが儲からない駐車場を造らなければならないのか」と考える人もいることです。自分たちが社会に迷惑をかけているという自覚のない人もいるようです。ところができあがってみると、「いやぁこの街はいいですね、トラックの姿が見えなくて、さすがにオーナーさん達の考え方は立派ですね」って褒められるのは彼らなのです。我々には納得できない面もあるのですが、そういうことをやっているわけであります。このような地域のルールは、東京駅の丸の内地区の千代田区だけでなく、反対側の中央区の八重洲側でもやっています。あと、新宿、渋谷というようなところを始めています。要するに、「貨物が集まるのだけれども、貨物が見えなくて心地よい」という都市を作りたいのです。これを、「目立たないための努力」と言っています。

    【5.災害に備える都市物流計画(有事)】

    5-1 災害対策の考え方
     
     最後に災害の話でございます。災害は、予防・応急・復旧の三段階があると思います。この図を見ていただくと、予防段階では、耐震耐火をはじめ「壊れない、燃えない、途切れない」を考えて、しかも災害を回避しようとします。しかし、残念ながら災害が発生してしまうと、まずは応急段階として、「逃げよう、次に誰かを助けよう、そして物資を届けよう」ということになります。そして復旧段階に入ると、長い時間をかけて復旧・復興をします。そして再び、予防段階になります。こういう繰り返しかなぁと思うわけです。

     防災といっても、災害の種類でだいぶ異なります。例えば噴火というのは、相当以前から予兆があるようです。台風は、3日か4日前にフィリピン沖で台風何号ができました、とわかる。ですから、暴風雨とか洪水は事前にわかることが多いようです。津波は、遠くの地震では何時間後、近いと何分後ですが、かわるにはわかるということです。ところが地震はわからないのです。そのため、地震については事前対策として、倒壊防止だとかライフラインの確保だとか、食料の備蓄などをやろうとするのです。物流のほうからいいますと、物資を補給するか備蓄するかしかないのです。つまり戦国時代に「物資を尽きるのを待つ『兵糧攻め』」という戦法があったわけです。この兵糧攻めに対抗するのは、補給するか、そこで備蓄してある物資で頑張れというしかないのです。だから「地震という名の『兵糧攻め』」に対しては、補給するか備蓄するしかないというのが、私の基本的な考え方でございます。

     これは国交省が示しているタイムラインです。日本地図が逆さまになっています。ここで台風が起きたって言って、何時間前、120時間前、72時間前と時間が経過して、その時間ごとに、どこで何やるかを決めておくものです。この災害に対する考え方を、日本とアメリカで比較してみましょう。これは、ニュージャージー州のハリケーンのタイムラインなのですけど、120時間前に持ってこいとか、各機関の防災行動レベルを2だとかいうことをやりだすわけですね。避難所の計画と準備をしなさいとかですね。一番大事なのはこの部分です。アメリカでは、コーディネーターで主担当官庁は三つなのですね。国土安全保障省と連邦危機管理庁、フィーマ(FEMA:Federal Emergency Management Agency)、それから連邦調達局です。調達局というのは物資の調達と配分ですね。それが主コーディネーターなのです。支援官庁が国防総省、内務省、運輸省、労働省です。日本には、調達局がないのです。強いて言うなら内閣府なのですが、要するに日本には、調達局がない、つまりロジスティクスがないのです。もちろん防衛省の中には調達部局があります。しかし、全体としてのものがないのです。

     これは、強靱化計画です。この強靱化計画のなかで、起きてはならない最悪の事態として、45のトピックスを集めるわけです。これは、内閣府のホームページを探すとすぐ出てきます。そのときにハッチが付いているのは、中でも絶対起きてはいけない事態が15あるということです。たとえば、1-1は何をかというと、「大都市での建物・交通施設の複合的・大規模倒壊や住宅密集地における火災による火災による死傷者の発生」と書いてある。そういうのが15あるわけですね。私の身びいきかもしれませんが、物流に関連するものを引っ張りだしたものが、この6つです。「2-1、被災地での食料・飲料水の生命に関わるような物資供給の長期停止」。それから、「5-1、サプライチェーンの寸断による企業の生産力低下による国際競争力の低下」、「5-8、食料等の安定供給の停滞」、「6-2、上下水道の長期間にわたる供給停止」などと書いてあります。身びいきだとしても、15分の6は多いと思うわけです。にもかかわらず、兵站やロジスティクスを忘れた日本人だからこそ、のんびり構えていられると思うのです。

     東日本大震災が起きた年の秋に、産業構造審議会の流通部会があり、議論をしました。首都直下型地震が起きたとしたら、ペットボトルは何日で無くなるかっていう試算をしました。最短で9日、どんなに長くもっても15日という試算だったと思います。これは公表してあるはずです。ペットボトルは15日で無くなって。では15日目までに水道が復旧するかというと、無理でしょうね。建設コンサルタントの方に計算を依頼しているのですが、「もし首都直下型の地震が起きたら、水道管は何キロ分いるのかとか、給水車は何だい必要か、水道工事人は何万人必要か、それらは日本全国から集められるか」という計算です。おそらくは、何か月の復旧に時間がかかると思いますが、そうすると15日でペットボトルが無くなって水道が復旧をするまでの間は、どうするのだろうか。やっぱり備蓄しかないのかなぁ。と考えるわけです。このような議論が必要なのだろうと私は思っているのです。そして今、そういう議論を、実は青森県の危機管理局に頼まれて、青森県全体の危機管理の勉強をしているのです。しかし、なかなか計画に結び付けていくのは、大変だと思っています。

    5-2 応急計画の考え方

     それで私はどんなことを考えているかというと、避難計画で待避のシグナルを作れないかと考えています。例えば、ミサイルが来るかもしれないっていってアラートという合図がありますが、これと同じような感覚です。私が1年間ほどJICAの仕事でフィリピン大学に勤務しましたが、フィリピンではシグナル2というと小学校休みとか自動的に決まるのです。シグナル何となったら、みな同じ解釈をして、行動もできると良いと思うのです。

     救援計画でも同じでありまして、「シグナル3、救援のタイプはBの5型」となるとみんなが事前に配布されていた「Bの5型の表」を取り出してみて、「あっ、いけない、これからトラックに乗ってあそこに行かなきゃ」というように、行動を決めておくのです。そのように事前に行動計画ができないかということです。つまり事前に応急措置をするときのパターンを決めておくべきと思うのです。地震が起きてから「おーい、車ありますか」って言っている時間がもったいないので、そのパターンをいくつかに作ってといて、「シグナル2のA2型」とか「シグナル3のB5型」とか、行動計画を作っておいて、皆さんが合図をもとに、一斉にぱっと行動できる方法はないだろうかと考えています。今、青森県の計画で導入できないかと話し合っているのですが、そこまでできるかどうかちょっとわかりません。自信ありません。

     救援のトリアージっていうのは、緊急時の優先割り当てですね。誰をどうするか。これも誰かがどこかで判断しなきゃいけない。実は、私、東京海洋大学というところにいたときに、東日本大震災が起きたわけです。当時私、教育担当の副学長をやっていました。その日、私は本部にいて、翌日が大学の入試でした。学長は外出中で、連絡もつきませんでした。ということは、明日の入試をやるかやらないか、私が決めなければならないわけでした。いろんなことを考えて、延期と決めました。帰宅困難者は、二つのキャンパス合わせて約1700人収容したのですけども、その時の教室の使い方も考えました。また発災直後は、大学に逃げてきた人は、1階の体育館に居てもらったほうが良いのか、津波を避けるために建物の高いところに行ったほうがいいのか。でも建物の高い研究室で、薬品箱が倒れたら大変なことになるけど大丈夫か、などなどもありました。 そのときに思ったのは、やはりどこかで「もうやるしかない。1人で決めなければならない」と開き直る必要があったように思います。しかし、多くの知恵もほしいし、一人で決めることが辛いからこそ、なるべく事前に選択肢を用意しておいたほうが良いと、思った次第です。

     補給計画では、補給のシグナルを設けて、補給の拠点を作ることになると思います。国交省では、企業のトラックターミナルや倉庫を使うことにしていますが、それだけでは不足するでしょうから、体育館とか展示場も含めるべきと思います。実際に、震災では、体育館や展示場や競技場が使われるからです。みなさんご存じと思うのですが、洪水のための調整池があります。洪水のときに、あふれる水を一時的に貯める施設ですが、実際の洪水で使用されるのは、1年のうち何日もありません。それ以外の350日くらいはテニスやゲートボールをやっていて良いわけです。だから防災施設と言いながら、地震のないときは毎日サッカーやってもいいのす。逆に言うと、そういうような施設を作っておかないと大変なんじゃないかなと気になっております。洪水用に調整池を造れるのだから、地震用に避難施設や防災拠点があってよいと思います。防災を兼ねた体育館や展示場や競技場であってほしいと思っています。

    5-3 補給と備蓄の課題 

     補給と備蓄の課題でありますが、これはラストワンマイルとか、避難所への配送などの問題もあります。これらについては、読んでいただくとして、もっとも重要なことは、「大震災では、補給はできない」ということです。小さい地震なら大丈夫です。熊本地震は、補給が可能な範囲でした。被災者約900万人東日本大震災も、問題はあったものの、何とか補給できました。しかし、首都直下型地震では、被災者が約3000万人と予想されています。この規模になってしまうと、補給はできないと思います。物資、トラック、運転手のどれかが被災してしまったら、できないと思えるからです。だとすると、備蓄をしなければならないことになります。

     この考え方を図に示したものが、これです。今、普通の状態で供給量も需要量もちょうどいいところにあって、ピタッと整合しているかもしれません。しかし、供給量が減って、需要量が増加すると、途端に品切れです。皆さんが全員、1日1回1個のおにぎりを買うという想定で、品切れも品余りも出ないようにコンビニに配送しているとき、震災で、皆さん方が1日3個買おうとなった途端に、3分の1の人しか買えなくなるわけです。急に、3倍の量のおにぎりを生産したり、3倍のトラックを用意したりすることは、大変なことでしょう。よく災害協定で、「うちの区はコンビニさんと協定していますから大丈夫。おにぎりは届きます」と言っていますが、他の区も同じことを考えていれば、無理ですよね。なのに、協定があるからと言って安心してしまうのは、絶対に良くないと思うのです。ですから、備蓄が必要だろうと思うのです。

    5-4 災害に備える企業のBCP
     
     最後に、BCPです。これは、本日はあまり関係がないかもしれません。要は何をいいたいかと言いますと、細かい表の内容は読んでいただくとして、予防の対策と応急の対策と復旧の対策があるので、その準備をしておきましょうということです。復旧の対策は、実際に被災してから考えるとしても、できれば予防と応急の対策だけは少なくても立てておこうということです。

     そのためには何をするかっていうと、被害を少なくするための対策です。倒れそうなものを倒れないようにする、ということです。次に、応急措置のための準備をしておこうということです。具体的には、「壊れない、失わないの、途切れないための対策」と、「調べる、逃げる、届けるための対策」です。これらのことを、あらかじめシュミレーションしておくと、実際に被災した時の行動が、だいぶ違うように思うわけでございます。

    5-5 都市防災計画の確立

     それでは最後に、都市防災計画の話しを少しだけして終わりにしたいと思います。皆さま方のお仕事の中でいろいろな計画に関与されるときに、是非考えてほしいことなのです。つまり、いままでの都市防災計画の大きな流れは、建築基準法での耐震設計や防火対策が、中心だったと思います。要するに、壊れないようにしよう、燃えないようにしよう、ということだったと思います。東京の場合ですと、白髭の防災拠点や公園整備などをやってきたわけです。では、今はどうかというと、相変わらず、どう逃げるか、どこへ避難するか、という議論が多いような気がします。もちろん、それらは大変に重要だし、それをやらなければならないことも理解できます。しかし、今は昔とは違ってだいぶコンクリートの構造物が増えています。ですから、耐震、防火、避難に加えて、次の議論が必要だと思います。

     そうだとすると、避難して生き残った人達に、どのように生き延びてもらうか、ということです。つまり、大阪の都心はコンクリート製なので燃えないかもしれないけれども、昼間の人口は多くいるので、彼らが一斉に家に帰ろうとすると混乱してしまう。ならば、何日間か都心のビルの中で籠城をしてもらうことも必要なはずです。そのように、考え方が変わって行くように思います。つまり、都心のビルや公共の施設を、籠城拠点にする方法がいかがですか、と思うわけです。

     それから、シェルターですね。スイスは、永世中立国でありながら徴兵制、そして核シェルターは各1戸に1個の設置が義務のようです。日本はというと、シェルターなんて何もないですね。要するに防空壕もないし、何もない。日本の高層マンションの場合、50階まで階段で上がるのは大変です。東京のあるタワーマンションの副理事長さんが、計算したそうです。エレベーターが止まった状態で、居住者全員に食べ物を配るのに階段を使ったらどうなるかを、シミュレーションしたそうです。そうしたら全員に一日分の食料分を運ぶために1.5日かかる結果だったそうです。だから5階ごとに備蓄倉庫を作る。こうして、住んでいる集合住宅そのものを、シェルター化してしまえばよいのです。高層マンションでエレベーターが止まっても、部屋に立て籠もっていればよいと考えるのです。例えばこのホテルで今日、今地震があったとしたら、ここの備蓄で1週間生き残れるね、となればいいわけですね。つまり、住宅も公民館も、シェルターにしておけばよいということです。

     そのために一番下に書いてあるのですが、日本都市計画学会では、都市マスタープランの中で防災マスタープランを作ることを提案しています。また、環境アセスメントと同じように、防災アセスメント制度を導入すべきと提案しています。

    【6.おわりに】

     さて、最後のまとめということになります。この図は、日本都市計画学会の創立者の1人の石川栄耀先生のお考えを引用しています。石川先生は、「都市計画には、国・自治体・企業・市民の4つの計画がある」というようなことを書いておられます。しかし、最近は、一部で、「まちづくりは、市民が作ることが一番良い」と主張する人が増えています。私は全くそう思っていません。私は、「国家として、自治体として、企業として、市民として」と、それぞれに役割があるだろうと思っているわけです。

     例えばライフラインを考えたときに、上下水やエネルギーの確保は、基本的に国家が考えるものだろうと思います。確かに市民が「下水道の容量が不足している」などと主張していることを聞いたことがありません。やはり、市民活動は身近な目に見えるところから始まるからでしょう。もちろん、そのような身近な視点で見ていただくことも、非常に重要だと思います。景観、環境、生態などは、ぜひ市民の意見を取り入れたいものです。そして今までは、国、自治体、企業、市民という図式のなかで、たぶん上手に棲み分けていたのでしょう。しかし、これからは守備範囲が広がっていくように思います。例えば市民も、防災協定をどうするとか、助けてもらうことと助けることの両方を考えるとか。また、ユニバーサルデザインの設計をどうするとか、スマートシティはどうなるか、太陽光発電やるのだと、広がっていくのだろうと思います。つまり、インフラだから国や自治体だけで考えればよいという時代から、国と自治体と企業と市民で一緒に考えないといけない時代になっていくのだと思います。ということは、お互いに発言は認め、しかもお互いの得意不得意は考えるが、互いの意見も理解できる大人の議論が必要になってくるのでしょう。

     これを物流に当てはめて、建築物での物流のあり方を考えてみたいと思います。建築物をつくるとき、現実には、「物流事業者よりも建設会社のほうが強くて、建設会社より設計会社のほうが強くて、設計会社よりビルオーナーの強くて、ビルオーナーよりテナントのほうが強くて、テナントより市民が強い」ということになります。となると、市民が物流を理解してくれれば、大きな力になるはずです。しかし、市民の方々は、あまり物流に興味はない。あったとしても、「コンビニのおにぎりは好きだが、おにぎりを運ぶトラックは嫌い」というような面があるように思います。ですから、市民の皆様にも、生活を支える物流の重要性を理解してもらえるように、努力していきたいと思います。

     最後に申し上げたいことがあります。この絵です。これはある雑誌にコラムを連載しているときに描いてもらった絵です。地上の公園では、当たり前に水を飲んでいるけれど、当たり前すぎて感謝することはありません。しかし断水すると、早く何とかしろと怒り出します。そのため、断水しないようにと、地下では、目立たない努力として点検修理をしているのです。

     物流も、たぶん水道工事の人と似た存在なのだと思います。昨今の物流の再配達問題で少し脚光を浴びているのですが、やはり物流というのは目立たないほうがいいと思います。災害で物流が目立ったときは、物資が届かないときです。物流がダメだから、おにぎりがこないというような話が一番困ります。だからこそ、「物流の本質は、人々の生活を支えるために『目立たないための努力』を重ねること」ではないかと、思っている次第です。その本質を、今後も、少しでも多くの方々に理解していただきたいと願っています。

     少しばかり時間が超過してしまいましたけれども、長い間我慢して聞いてくださってありがとうございました。これで終わりにしたいと思います。ご清聴、ありがとうございました。

                                                          ( 以 上 )