「一休さん」の実像?
牧草コンサルタンツ(株)
代表取締役 牧草 弘師
わが町にはとんちでお馴染みの「一休さん」が晩年を過ごした一休寺がある。家から徒歩で20分、格好の散歩コースで、境内の墓地には親たちが眠っており日に一度は足を運ぶ。わが町とは、京都府南部で進められている関西文化学術研究都市の北端に位置する京田辺市のことであります。
そんな縁もあって、「一休さん」についてさまざまな逸話や資料に接する機会に恵まれる。「一休さん」といえばとんちの和尚、知らぬ人のない国民的なアイドルだが、知るほどにイメージとはかなりかけ離れた骨太い人間像が浮かび上がってくる。あまり知られていない一面を紹介してみます。
人皇百代、後小松天皇の皇子と生まれながら、庶民のなかに分け入り民衆褝を説いたという。権力や腐敗宗教に歯に衣を着せぬ攻撃を加える激しい反骨精神の持ち主であったようだ。その一方で、茶道や能楽などにも深い理解を示し、日本文化にも大きな影響を与えていると伝えられます。
時は乱世、応仁の乱で都は焼け野原となる。この情景は「汝(なれ)や知る都は野辺の夕雲雀(ひばり) 上がるを見ては落ちる涙は」と歌にも残されている。
こんな殺伐とした都から難を避け、田辺に移った「一休さん」を慕って多くの文化人がこの地を訪れたといいます。
のちに千利休へと受け継がれる茶道の村田珠光(むらたじゅこう)、能楽の金春禅竹(こんぱるぜんちく)、観世音阿弥(かんぜおんあみ)、連歌の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)、俳諧の山崎宗鑑(やまざきそうかん)、画の曾我蛇足(そがだそく)など、さながら室町文化サロンの趣を呈している。これらの人たちは「一休さん」と交わることで芸風を深めていったといわれています。
とりわけ興味深いのは、晩年に出合った盲目の美女「森女(しんにょ)」との老いらく恋の逸話がある。自らを老狂の薄倖という。つまり老碌して色キチになる、色に酔いしれる男だと告白する。「一休さん」は狂雲集という詩集のなかで、この森女との生活を赤裸々に歌いあげているから何とも凄いお坊さんであります。
盲目の「森女」を自分の乗る興に乗せ春の野山に花見に出かけたという話もある。盲目の人に花見とは、と思うのは凡人の浅はかさで、春の香りを味あわせてやろうという心遣いなのだ。また、謡曲の「江口」や「山姥(やまんば)」は「一休さん」の作に禅竹が節づけをしたものといわれている。これも目の見えない「森女」心を慰めるために作ったというから半端な思い入れではない。この「森女」に関する逸話は人間味豊かな一面を伝えて「一休さん」の面目躍如たるものがある。
(しかつめらしくやっているけど所詮人間なんてこんものだよ)と言いたげな堂々たる生き様を見せた「一休さん」の声が聞こえてくるようです。
「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」だとか、「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ帰る一休み 雨降らば降れ風吹かば吹け」というのもある。この世はあの世へいく途中で、一休みしている場所に過ぎないのだから、何ごとも自然にまかせてじたばたするな、という意味にうけとれます。
日々あくせく暮らしているわれわれに比べて精神のありようが異なる。こんな境地に達することが出来れば誠に豊かな精神生活を送ることができるだろうと思います。
ところで、筆者がかねてからひそかに推理していることがある。「一休さん」が生きた時代、室町幕府の絶頂期です。金閣寺を建立した三代将軍足利義満は50年の短い生涯だったが、皇位簒奪と暗殺説がある。真相は闇の中だが、「天皇家は百代で終わり、これからは足利の時代」と言ったとか言わなかったとか。
「一休さん」は第百代後小松天皇の皇子として生まれた。「一休さん」のような骨太い人物が天皇家にいたのでは何かと面倒だと強引に出家をさせたと考えられる。そのことが反骨精神旺盛な「一休さん」の人間形成に深く関わっているのではないだろうか、と。勿論、根も葉もない話であります、が、年齢的なことや時代背景は符合するから興味深い。