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二宮金次郎の一生


大阪エンジニアリング株式会社
代表取締役 中村 雄一

  薪を担ぎ、読書をしながら歩いている二宮尊徳の姿は、かつて日本人の手本として賞賛されていました。
  彼をそれほどまでに読書に駆り立てた原動力は、5才の時に津波により酒匂川の堤が決壊し、豊かだった田畑が濁流により流失し、これを元に戻すために借金を重ね、一家の生活は窮迫し、そのために苦労する両親の姿が幼い金治郎の目に焼きつき、金次郎の脳裏から生涯消えることがなかったことが挙げられる。
  12才の時、堤防工事に出てくる村人を見て、「自分はまだ力が足らなくて、一人前の務めをはたすことが出来ません。はやく大人にして下さい。」と祈り、家に帰ると、村人達のために草鞋を作った。子供心に洪水からいかにして村を守るかに腐心し、松の木の根は堤を丈夫にするというので、子守りのお礼で松の苗を買って土手に植え、暇があれば堤防を見廻り、人々から「土手坊主」とあだ名された。「貧しくても自分のことだけを考えるのではなく、世のため、人のために、何かをしなければならない。」という気持ちが育っていった。
  12・13才頃には、『大学』『論語』を読むようになっていた。薪を背負って毎日、長い道をただ往復するだけでは時間がもったいない。そこで『大学』という書物を懐に入れて往き帰りに読んだのである。これに対し村人は、本を読む余裕があるなら、もっと速く歩くとか、薪をたくさん背負うとかするのが百姓の生活信条であり、百姓の分際にあるまじき変人という意味で「キ印し(気違い)の金さん」などと呼ばれたりした。
  正月になるとお神楽が家々を周り、一舞いする風習があり、そのお祝儀には12文出すのがしきたりになっていたが、そのわずかな金さえなく、居留守を使ってお神楽の帰るのを待つこととした。家族で息をひそめていたが、4才になる弟の富次郎はにぎやかなお囃子に「お神楽を見たい、お神楽を見たい」と我慢できないのを、なだめすかして奥へつれて行き、やがて足音が遠ざかっていった。家族はほっとすると同時に、12文さえ払えない貧しさが、悲しく、恥ずかしく、屈辱の思いが金次郎の中をかけめぐった。
  それから1年半の間に両親が亡くなり、兄弟3人で田圃を耕したが、田植えが終わると、また、酒匂川が氾濫し、わずかな田畑まで失ってしまった。こうして、金次郎16才の時に、兄弟3人はそれぞれ親戚の家に預けられ、一家離散を余儀なくされた。
  「予不孝にして、14才の時父に別れ、16才のおり母に別れ、所有の田地は、洪水のために残らず流失し、幼年の困窮艱難実に心魂に徹し、骨髄に染み、今日なお忘るること能わず」「何とぞして世を救い国を富まし、憂き瀬に沈む者を助けたく思ひて、勉強せしに、計らずも又、天保両度の飢饉に遭遇せり。是において心魂を砕き、身体を粉にして、弘くこの飢饉を救はんと勤めたり。」
  若くして貧乏と不幸を味わいながらも、驚異的な勉学を続け、農民の出でありながら、後に飢饉から一国を救った二宮尊徳の偉大な生涯を、私達はただただ見習う必要があると思い、ここにご紹介させていただきました。

  <参考文献>
  『二宮金次郎の一生』三戸岡道夫著(栄光出版社)
  『二宮尊徳のことば-素読用』寺田一清編(登龍館)より